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ほけきょ庵の焼き物アレコレ
伊豆の踊り子はんなり焼き
制作者■武山よしてつ
開発研究期間■約1年
伊豆を舞台にした川端文学・伊豆の踊り子は、小学生の時に一度読み、
その後に同題材の映画を何本か見ているのですが何時も印象的なのが
裸の踊り子が書生さんに手をふるシーンです。
「へ~伊豆には川のほとりに温泉あるんだ。はいって見たいな~」
逆を言うとその位にしか心に引っかかりの無い退屈な物語と言うのが
それまでの私の感想でした。
ちょうど私の生まれた昭和47年に川端康成は没してますので、作品に出てくるような「にっぽん」
の風景や、当時のにっぽん人の情緒は、頭では理解できても心の底からは知り得ません。
東京のベッドタウン、どこにでもあるような団地。電信柱で埋め尽くされた街で育った私には、
「伊豆の踊り子」の作品性を紐解き共感を持って読み進めることがどうにも出来ないのです。
この感じ方は、サリンジャーの「ライ麦畑でつかまえて」を読んだ時の感覚にも似てます。
・川のほとりの温泉にはいってみた(湯ヶ島温泉・湯本館)
「え?これの何が面白いの?」なのです。
仕方がありません。本当にそう感じてしまうのですから。
ではなぜ「え?これの何が面白いの?」と、感じてしまうかを
自分なりに分析してみることにします。
おそらくこんな感じかと思うことを述べてゆくと。
産まれたときには家に「テレビ」があり、小学校に入るころには「テレビゲーム」で遊び
小学校高学年では、家にある「ビデオ」で映画を見てました。
偉人伝や科学の本も好きで読んだしサッカーも野球もドッヂボールも楽しんだ子供でしたが、
アニメや漫画が大好きで、ゲームセンターで遊ぶことも好きな子供でした。
私が生まれてから流行った物を順にあげると「スーパーカー」「ルービックキューブ」
「ガンダム」「ファミコン」「バンドブーム」「スノボー」といった感じです。
どれもマスメディアの煽りを受け国民全員が同じ方向を向くような流行り方でした。
母に昔の話を聞いてみても「だっこちゃん人形」「ミニスカート」「フラフープ」「ボーリング」と
戦後の日本の風潮として「国民全員が同じ方向を向く」ほどの流行の形が主流でした。
90年代も後半に入りようやく娯楽やファッションも多様化し、
個性教育の甲斐あってか「人と違う事」が美徳にもなりつつある昨今ですが。
何が言いたいかというと、産まれてこのかた
実態は広告産業である、マスメディアより与えられる情報。
資本主義社会の副産物である「娯楽」が「刺激的」過ぎたのです。
・伊豆の踊り子イメージ
流行に乗らないと話題についてゆけない。仲間はずれにされる。
皆が見てる番組を見て必死になって話題についてゆく。
それでもつまり流行にのっかってたほうが「楽」なんですね。
もしくはそんな事すら疑問に思わないくらいに情報に踊らされてたんです。
今でも空気を読まないと駄目人間のレッテルを貼られたりしますが
特に20世紀後半はそんな空気が蔓延してたように思います。
そんな資本主義社会の「刺激の渦」の中にあっては感覚も鈍くなり
「伊豆の踊り子」を読もうが「ライ麦畑でつかまえて」を読もうが
微細に響いてるものに気がつくわけが無い。
電車に乗って40分で東京に出ることの出来る埼玉県で育ち
原宿や渋谷などをほっつき歩いて刺激を貪る様に生きてきた私の自己分析です。
しかし、「伊豆の踊り子」が理解できない。
と言うことでもないのです。
正確に言うと、社会に出て様々な物に触れ、インプットして行くうちに。
情報や噂を鵜呑みにせず、検証を持って物事の判断を行うようになるにつれ
自分なりに伊豆の踊り子物語の魅力がわかるようになったと言うことです。
私にとって読解のキーとなったのは「ロードムービー」でした。
映画のジャンルの一つ「ロードムービー」。
簡単に言うと「旅をして成長する」物語です。
いくつか題名を挙げてみますと
「イージー・ライダー」
「幸福の黄色いハンカチ」
「パリ、テキサス」
「スタンド・バイ・ミー」
「トゥルー・ロマンス 」
「リトル・ミス・サンシャイン」
幸いにも伊豆の踊り子は人気もあり
往年の大スター「美空ひばり」「吉永小百合」「山口百恵」などが出演で6回も映画化されてます。
このうちの「吉永小百合」板は少なくとも「ロードムービー」的に仕上がってる印象を受けました。
(ちなみに山口百恵版は製作当時流行ってたアメリカンニューシネマムービー風バッドエンドが笑えます)
これは、映画制作時にロードムービー全盛期と言うことよりも、映画監督が意図したと言うよりも、
「伊豆の踊り子」原作の持つエッセンスその物が「ロードムービー」なんだな。との解釈です。
映画馬鹿的解釈をするならば
川端康成文学=ヴィムベンダース的な彫刻的、哲学的な映画表現
「ああ、なるほど」と
ともするとヴィムベンダースの映画は静かで退屈とも言われるのですが。
しんと心を落ち着けないと聞き分ける事の出来ない微細な響き、妙な魅力を持っており。
見れば見るほどスルメ的に味わいが増すのです。
これは情報過多社会では異例の事であり、
その特異性がヴィムベンダースの持つ映画表現の硬質性を支えていると考えます。
しかしそして恐らくは、川端康成が伊豆の踊り子執筆当時は、
「伊豆の踊り子」は当時の日本人には刺激的な読み物であったのではないか?
今でこそしんと心を落ち着けて聞き耳立てて
感じるように味あわないと退屈してしまう物語であるのだけれどもです。
(いや、当時としてもすでに回顧的で
古き良き物を尊ぶ心持で描かれた作品だよと言われても納得は出来るますけど)
刺激を抑えたヴィムベンダースの硬質的な映画手法と
当時としては刺激的だった川端康成の「伊豆の踊り子」が
資本主義社会の産んだ功罪、「ムービー」と
古きよき表現形態である「文学」が、私の中でクロスオーバーを起こしたのです。
「旅をして成長する」物語は形態はどうあれ人の心をとらえる物なのだなと。
そうして改めて読み進めてみると。
今まで理解できなかった「伊豆の踊り子」が急速に理解でき、共感が体に浸透して行くのでした。
川端康成の描いた踊り子は
白一色に染め上げられた見事と言える大人らしい女性ではなく
遊び心や幼さ、可憐さを色濃く残す少女でした。
その奔放さは、マダマダ成長の余地を残した「未完成」であり
転じて「可能性」を感じさせます。
・真っ白ではない、ふうわりと優しい白
ほけきょ庵の伊豆の踊り子はんなり焼きは、赤い土と粗い土を混ぜたブレンド土に
白化粧土をかけて半透明釉をかけて優しく明るい、ぬくもりを感じさせる白い焼き物を目指してます。
「白粉化粧を施してもほっぺの赤みが消せないほどの幼さの残る少女」
まっ白く冷たい感じにならぬよう、色の発色が豊かで明るくなるように
まぎれの多くなる釉薬がけの技法を用いまぎれが多くなる焼成方法にて焼き上げています。
故に、均一ではない、同じようで一つ一つが違う焼き上がりが楽しめます。
はんなり焼きは貫入に茶渋などがしみ込み、
使えば使うほどに味の出る。綺麗に汚れてゆく「未完成」の焼き物です。
「器」を育てる楽しみ、人間の「器」を育てる楽しみ。
伊豆のお土産としておすすめします。